擬似ベクトルとは
導入
座標系の向き
$3$次元空間に二つの直交座標系 $S = \left\{ \mathbf{e}_{1}, \mathbf{e}_{2}, \mathbf{e}_{3} \right\}$と$S^{\prime} = \left\{ \mathbf{e}_{1}^{\prime}, \mathbf{e}_{2}^{\prime}, \mathbf{e}_{3}^{\prime} \right\}$があるとしよう。たとえば$S = \left\{ \hat{\mathbf{x}}, \hat{\mathbf{y}}, \hat{\mathbf{z}} \right\}$、$S^{\prime} = \left\{ \hat{\mathbf{x}}, 2\hat{\mathbf{y}}, 3\hat{\mathbf{z}} \right\}$とする。あるベクトル$\mathbf{r}$の$S$に関する座標が次のようであるとしよう。
$$ \mathbf{r}_{S} = 1 \cdot \hat{\mathbf{x}} + 2 \cdot \hat{\mathbf{y}} + 3 \cdot \hat{\mathbf{z}} = (1,2,3)_{S} $$
一つのベクトルは、どの座標系を基準にしてもそれ自体は変わらないので、$S^{\prime}$に関する座標は以下のようでなければならない。
$$ \mathbf{r}_{S^{\prime}} = 1 \cdot \hat{\mathbf{x}} + 1 \cdot 2\hat{\mathbf{y}} + 1 \cdot 3\hat{\mathbf{z}} = (1,1,1)_{S^{\prime}} $$
このとき、二つの座標の変換は次のような行列$Q$によって行われる。
$$ Q = \begin{bmatrix} 1 & 0 & 0 \\ 0 & 2 & 0 \\ 0 & 0 & 3 \end{bmatrix} $$
$$ \begin{bmatrix} 1 \\ 1 \\ 1 \end{bmatrix}_{S^{\prime}} = \begin{bmatrix} 1 & 0 & 0 \\ 0 & 1/2 & 0 \\ 0 & 0 & 1/3 \end{bmatrix} \begin{bmatrix} 1 \\ 2 \\ 3 \end{bmatrix}_{S} $$
このように、同じベクトルでもどの座標系を選ぶかによって座標が変わる。一方、別の座標系$S^{\prime \prime} = \left\{ \hat{\mathbf{x}}, \hat{\mathbf{y}}, -\hat{\mathbf{z}} \right\}$を選ぶと、同じベクトル$\mathbf{r}$の座標は次のようになる。
$$ \mathbf{r}_{S^{\prime \prime}} = 1 \cdot \hat{\mathbf{x}} + 2 \cdot \hat{\mathbf{y}} + (-3) \cdot (- \hat{\mathbf{z}}) = (1, 2, -3)_{S^{\prime \prime}} $$
$S \to S^{\prime}$でも$S \to S^{\prime \prime}$でも座標は変わったが、二つの変化は性格が異なる。$S^{\prime}$は軸の目盛りを伸ばしただけなので軸が指す向きはそのままであるのに対し、$S^{\prime \prime}$は$z$軸が指す向きそのものを反対にしてしまった。この違いを測るのが座標系の**向き**orientationである。
新しい座標系の基底ベクトルを元の座標系の座標で書き、列に並べた行列を考えよう。上の二つの座標系についてはそれぞれ次のようになる。
$$ P_{S \to S^{\prime}} = \begin{bmatrix} 1 & 0 & 0 \\ 0 & 2 & 0 \\ 0 & 0 & 3 \end{bmatrix} , \qquad P_{S \to S^{\prime \prime}} = \begin{bmatrix} 1 & 0 & 0 \\ 0 & 1 & 0 \\ 0 & 0 & -1 \end{bmatrix} $$
二つの座標系の向きが同じか異なるかは、この行列の行列式の符号で判別する。正なら同じ向き、負なら異なる向きである。
$$ \det P_{S \to S^{\prime}} = 6 > 0 , \qquad \det P_{S \to S^{\prime \prime}} = -1 < 0 $$
$\mathbb{R}^{3}$の標準基底$\left\{ \hat{\mathbf{x}}, \hat{\mathbf{y}}, \hat{\mathbf{z}} \right\}$と同じ向きの座標系を右手座標系right-handed、異なる向きの座標系を左手座標系left-handedという。上の$S^{\prime}$は右手座標系であり、$S^{\prime \prime}$は左手座標系である。
向きを反転すると起こること
上では座標系の条件に何の制限も設けなかったが、これからは基底ベクトルが互いに垂直で長さがすべて$1$である正規直交座標系のみを考えよう。 このとき座標変換行列は直交行列$Q$となり、$\det Q = \pm 1$である。
$S$を右手座標系とし、$z$軸だけを反転した座標系を改めて$S^{\prime}$とする。(上での$S^{\prime}$とは異なる。)
$$ \mathbf{e}_{1}^{\prime} = \mathbf{e}_{1}, \qquad \mathbf{e}_{2}^{\prime} = \mathbf{e}_{2}, \qquad \mathbf{e}_{3}^{\prime} = - \mathbf{e}_{3} $$
このとき$Q = \diag(1, 1, -1)$であり$\det Q = -1$なので、$S^{\prime}$は左手座標系である。
では空間に矢印を二本置こう。一本は$\mathbf{e}_{1}$方向、もう一本は$\mathbf{e}_{2}$方向である。どちらも$xy$平面内にあるので、$z$軸を反転しても成分は変わらない。
| $S$での成分 | $S^{\prime}$での成分 | |
|---|---|---|
| 一本目の矢印 | $(1, 0, 0)$ | $(1, 0, 0)$ |
| 二本目の矢印 | $(0, 1, 0)$ | $(0, 1, 0)$ |
二つの座標系でそれぞれ外積の成分公式をそのまま適用すると、どちらでも$(0, 0, 1)$が得られる。ところが$S$での$(0, 0, 1)$は$\mathbf{e}_{3}$方向の矢印を指し、$S^{\prime}$での$(0, 0, 1)$は$\mathbf{e}_{3}^{\prime} = -\mathbf{e}_{3}$方向の矢印を指す。同じ計算をしたのに、空間では正反対を指しているのである。
成分だけに注目して改めて見てみよう。外積の結果が位置と同じ方式で変換されるのであれば、$S^{\prime}$での成分は次のようになるはずであった。
$$ Q \begin{pmatrix} 0 \\ 0 \\ 1 \end{pmatrix} = \begin{pmatrix} 0 \\ 0 \\ -1 \end{pmatrix} $$
しかし実際に得られたのは$(0, 0, 1)$である。符号が一つずれており、そのずれの大きさがちょうど$\det Q = -1$である。
$$ \begin{pmatrix} 0 \\ 0 \\ 1 \end{pmatrix} = (\det Q) Q \begin{pmatrix} 0 \\ 0 \\ 1 \end{pmatrix} $$
原因は明らかである。外積の成分公式は右手座標系を前提として作られたものなので、左手座標系で同じ公式を使うと向きの規約がもう一度反転する。そのため、外積によって作られる量は、位置や速度とはそもそも異なる変換法則に従わざるを得ない。この二つを区別して名前を付けるのが以下の定義である。
定義
導入と同様に、二つの正規直交座標系$S$、$S^{\prime}$とその間の直交行列$Q \in \operatorname{O}(3)$を考えよう。ある物理量を二つの座標系でそれぞれ測定して成分$\mathbf{v}$と$\mathbf{v}^{\prime}$を得たとき、二つの座標系をどのように取っても次が成り立つならば、この物理量を極性ベクトルpolar vectorという。
$$ \mathbf{v}^{\prime} = Q \mathbf{v} $$
同じ方式で測定して成分$\mathbf{a}$と$\mathbf{a}^{\prime}$を得た物理量が次を満たすならば、擬ベクトルpseudovectorあるいは軸性ベクトルaxial vectorという。
$$ \mathbf{a}^{\prime} = (\det Q) Q \mathbf{a} $$
説明
直交行列の行列式は$\det Q = \pm 1$であり、そのうち$\det Q = 1$であるものが回転、すなわち特殊直交群$\operatorname{SO}(3)$の元である。回転については次が成り立つ。
$$ R \in \operatorname{SO}(3) \implies (\det R) R = R $$
したがって、回転変換では極性ベクトルと擬ベクトルは区別されない。違いが現れるのは直交群$\operatorname{O}(3)$の残りの部分、すなわち$\det Q = -1$である反射や空間反転のように、空間の向きorientationを反転させる変換においてである。原点対称な座標変換$Q = -I$は$3$次元で$\det(-I) = (-1)^{3} = -1$なので、次を得る。
$$ \begin{align*} \mathbf{v}^{\prime} &= (-I) \mathbf{v} = -\mathbf{v} \\ \mathbf{a}^{\prime} &= \left( \det (-I) \right)(-I) \mathbf{a} = (-1)(- \mathbf{a}) = \mathbf{a} \end{align*} $$
原点対称な座標変換をしたとき、我々が考える直感的なベクトル(=極性ベクトル)は向きが反対になるが、擬ベクトルはそうならない。反射も同様である。$xy$平面に関する反射$Q = \diag(1, 1, -1)$を考えてみると、$\det Q = -1$なので次のようになる。
$$ \begin{align*} \mathbf{v}^{\prime} &= Q \mathbf{v} = (v_{1}, v_{2}, -v_{3}) \\ \mathbf{a}^{\prime} &= (\det Q) Q \mathbf{a} = -(a_{1}, a_{2}, -a_{3}) = (-a_{1}, -a_{2}, a_{3}) \end{align*} $$
極性ベクトルは鏡面内の成分をそのままにして鏡面に垂直な$z$成分の符号だけを変えるのに対し、擬ベクトルはちょうどその逆で、垂直成分を残して面内の二つの成分を反転させる。二つの極性ベクトルの外積が実際にこのように変わることは、以下の性質で確認できる。
"擬"の意味
名前は擬ベクトルだが、線形代数的には紛れもなくベクトルである。座標変換が適用される方式の違いによって極性ベクトルと擬ベクトルを分けたものなので、どちらも$\mathbb{R}^{3}$内の3次元ベクトルである。つまり、実は"擬"が修飾している対象はベクトルそのものではなく、ベクトルが座標変換に従う規則なのである。
例
| 一覧 | |
|---|---|
| 極性ベクトル | 位置$\mathbf{r}$、速度$\mathbf{v}$、運動量$\mathbf{p}$、力$\mathbf{F}$、電場$\mathbf{E}$ |
| 擬ベクトル | 角速度$\boldsymbol{\omega}$、角運動量$\mathbf{L} = \mathbf{r} \times \mathbf{p}$、トルク$\boldsymbol{\tau} = \mathbf{r} \times \mathbf{F}$、磁場$\mathbf{B}$ |
角運動量とトルクが擬ベクトルであることは、極性ベクトル同士の外積なので$(1)$から直ちに従う。磁場はローレンツ力の法則$\mathbf{F} = q \mathbf{v} \times \mathbf{B}$からわかる。左辺の力と速度がどちらも極性ベクトルなので、等式が成り立つためには$\mathbf{B}$は擬ベクトルでなければならない。このように、擬ベクトルの区別は新たに立てた式が意味をなすかどうかを検査する道具にもなる。
回転についてはスカラーのように変換されるが、空間反転で符号が変わる量は擬スカラーpseudoscalarといい、三つの極性ベクトルのスカラー三重積$\mathbf{a} \cdot (\mathbf{b} \times \mathbf{c})$が代表的な例である。
難しい定義
上の定義は、座標系をまず導入し、成分がどのように得られるかを言葉で記述しなければならない。表現の言葉を借りれば、座標系に言及せずに定義できる。直交群$\operatorname{O}(3)$について次の二つの写像を考えよう。
$$ \rho^{+}(Q) := Q, \qquad \rho^{-}(Q) := (\det Q) Q $$
行列式が準同型写像なので、どちらも$\operatorname{O}(3)$の表現である。
$$ \rho^{-}(Q_{1}Q_{2}) = \det(Q_{1}Q_{2}) Q_{1}Q_{2} = \left[ (\det Q_{1}) Q_{1} \right] \left[ (\det Q_{2}) Q_{2} \right] = \rho^{-}(Q_{1}) \rho^{-}(Q_{2}) $$
$\rho^{+}$を載せた$\mathbb{R}^{3}$の元を極性ベクトル、$\rho^{-}$を載せた$\mathbb{R}^{3}$の元を擬ベクトルという。こうしておくと、ある三つ組が擬ベクトルであるかどうかは、その三つ組自体の性質ではなく、それが置かれた空間に直交群がどのように作用するかの問題であることが定義から直ちに明らかになる。二つの表現は$\operatorname{SO}(3)$に制限すると同じになるが、$\operatorname{O}(3)$の既約表現としては互いに同型ではなく、これが回転だけでは両者が区別されない理由である。
性質
二つの極性ベクトルの外積は擬ベクトルである。$Q \in \operatorname{O}(3)$と$\mathbf{u}, \mathbf{v} \in \mathbb{R}^{3}$について次が成り立つ。
$$ (Q \mathbf{u}) \times (Q \mathbf{v}) = (\det Q) Q (\mathbf{u} \times \mathbf{v}) \tag{1} $$
$\mathbf{u}$と$\mathbf{v}$が極性ベクトルならば、左辺は変換された二つのベクトルの外積なので、$(1)$は$\mathbf{u} \times \mathbf{v}$がちょうど擬ベクトルの変換法則に従うということを意味する。
証明
任意の$\mathbf{w} \in \mathbb{R}^{3}$について、スカラー三重積は三つのベクトルを行に持つ行列の行列式なので次のようになる。
$$ \begin{align*} \left[ (Q\mathbf{u}) \times (Q\mathbf{v}) \right] \cdot (Q \mathbf{w}) &= \det \begin{bmatrix} (Q\mathbf{u})^{\mathsf{T}} \\ (Q\mathbf{v})^{\mathsf{T}} \\ (Q\mathbf{w})^{\mathsf{T}} \end{bmatrix} = \det \left( \begin{bmatrix} \mathbf{u}^{\mathsf{T}} \\ \mathbf{v}^{\mathsf{T}} \\ \mathbf{w}^{\mathsf{T}} \end{bmatrix} Q^{\mathsf{T}} \right) \\ &= (\det Q) \det \begin{bmatrix} \mathbf{u}^{\mathsf{T}} \\ \mathbf{v}^{\mathsf{T}} \\ \mathbf{w}^{\mathsf{T}} \end{bmatrix} = (\det Q) \left[ (\mathbf{u} \times \mathbf{v}) \cdot \mathbf{w} \right] \end{align*} $$
一方、直交行列は内積を保存するので次が成り立つ。
$$ \left[ (\det Q) Q (\mathbf{u} \times \mathbf{v}) \right] \cdot (Q \mathbf{w}) = (\det Q) \left[ (\mathbf{u} \times \mathbf{v}) \cdot \mathbf{w} \right] $$
$Q$は可逆なので、$\mathbf{w}$が$\mathbb{R}^{3}$全体を動けば$Q\mathbf{w}$も$\mathbb{R}^{3}$全体を動く。両辺の二つのベクトルがすべてのベクトルと同じ内積を持つので、二つのベクトルは互いに等しい。
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