大学数学における数列の収束を複雑に定義する理由
定義
を実数の数列とする。全ての に対して、 を満たす が存在するならば、 が に収束すると言う。
説明
このような定義や展開を一般にイプシロン-デルタ論法と呼ぶ。数列の極限を厳密に再定義する理由が「必要だから」と納得し難いかもしれないが、初学者にとってはあまり役に立たないアドバイスだ。
特に数式が書かれていると、韓国人にとっては読むことから難しいが、おおよそ以下のように読めば良い。
あらゆる正のイプシロンに対して、ラージエヌ以上のスモールエヌに対して、エックスエヌマイナスエイの絶対値がイプシロンより小さくなるようなある自然数ラージエヌが存在する。
読む人によっては意地悪な言葉遊びとさえ感じられるかもしれないが、必要性は別として、なぜこのように複雑な表現を使う必要があるのかについての説明はほとんどないため、いくつか注記を加えてみる。簡潔を好む数学者がわざわざこのような複雑な表現を使用するのにはそれなりの理由があるからだ。
なぜわざわざ なのか?
イプシロン はErrorの先頭文字から取られており、収束の文脈では数列 と極限 の偏差、すなわち許容誤差 とみなせる。誤差が より小さいなら、その分 は に近づいていると言える。
どうして全ての が必要なのか?
全ての正のに対して、ということは、との間に隙間が全くないということだ。これは、とが非常に近いというだけでなく、無限に近いということを意味し、収束性を論じる際に欠かせない言葉である。
明確に全ての正数と言っていたのに、実際の文脈ではを非常に小さいものだけ気にしているような印象を受けたならば、この問いに対する答えを得たと見なして良い。小さいに対してが存在するならば、それより大きなに対してはが存在するかどうかにかかわらず、自然とが存在するため、気にする必要がない。しかし、気にしないと言うことが全ての正数でなくても良いという意味ではないことに注意が必要だ。
が存在すると言う話はなぜあるのか?
が存在することこそが、収束性を語ることである。逆に上の図のように小さいが与えられたけれど条件を満たすが存在しないとしたら、とがではない誤差を持っているならば「収束した」と言うことはできないだろう。
実際、この部分こそがイプシロン-デルタ論法の長所が明らかになる部分である。冷静に考えてみれば、ある数列がで収束するという主張はあまりにも過激である。時間は無限であるが、人間は有限であり、どうやって全てのに対して検討するというのか?
だから、一度に全てのを検討するのではなく、目の前にあるに対してだけ、そのようなが存在するということでその瞬間だけ逃れるのである。教授がのような表現を使うなら、まさにこの意味である。
たとえば、数列がに収束することを示すためには、であるためにと置けば、条件を満たすが常に存在することになる。をの関数と見なして再度書き直せばになることが確認できる。
そうすると、だけあれば良いのに、のような表現はなぜ必要なのか?
簡単だ。数列によっては、誤差が続けて縮小する保証がないからである。の存在性を示し、についても全て成立することを示せば安心だ。はよく韓国の教科書で説明されるように「十分に大きな数」として、条件を余裕を持って満たす役割をする。
全てを読んだけれども、それでも理解できなければどうすれば良いのか?
可能である。元々理解が難しいものだから、自信を失うだけは避け、そう思ってくれたら良い。多くの練習問題を解いてみれば、助けになるだろう。数学科であれば、理解したくなくても卒業までずっと見続けなければならないため、遅くとも3年生になれば理解できなくても論法自体には慣れるはずである。